東日本大震災−野田村の津波被害(1)

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内容更新日:2011.04.17.
レイアウト更新日:2023.06.25.

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東日本大震災−野田村の津波被害(2)


 このページは、野田村に縁の深い人達に野田村の被害状況を伝えるために作成しました。報道は被害の大きい地域に偏りますので野田村の様子はなかなか伝わりにくく、村民からも記録に撮っておいて欲しいと言われ、救援に参加しながら撮り歩きました。私は野田から山一つ越えたところに住んでおり、通う燃料も底をついたため燃料の一般向け販売が再開されるまで、山の家にこもってこのページを書いています。私の所はネット環境が一般電話回線しかなくアップロードに限りがあり文章も未完成ですが、徐々に付け加えていこうと思っています。
 3月12日撮影

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 被害は、玉川地区は見ていませんが、野田地区は米田浜、南浜から泉沢下、役場、愛宕山ふもと、北区のスタンド付近、三鉄野田駅付近まで水に浸かり、城内は下(しも)は壊滅状態です。港もすっかり流されましたが、新山地区は大丈夫でした。広内地区は高台で無傷でしたが、広内橋が落ち、周囲の道路も冠水したため通行止め。広内へは宇部町川原屋敷から迂回路があり孤立はしていませんが、広内橋の先の久慈市久喜地区は相当な被害が出ているそうです。
 津波が堤防や三鉄の線路までも越えてくるとは、ほとんどの人が予想していなかったと思います。私も野田に住んでいた頃、堤防に守られているという感覚がありました。それだけに12日に初めて被害を見た時、逃げ遅れた人が多かったのではと心配したのですが、次の日浜の近くに住んでいた人に出会い「必死になって逃げた」という話を聞いて、自分が思っているより多くの人達が助かったのではないかと考え直しました。しかし亡くなった人も少なからずおり、私の親しくしていた人も何人かが行方不明になっています。14日夜の時点で役場に貼られていた数は、死亡確認11名(うち1名は田野畑村民)、不明約20名でした。
 3月13日撮影

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 泉沢、○富商店前から南浜方面を見る。この方向には多くの家が建っていたが、何もなくなってしまった。堤防(線路?)も切れたように見えるが…

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 JAから南浜へ向かう道路に立って、360度見回す。(左半分は水平線が左上がりになってます。)

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 土台だけ残った家。

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 浜側にあった”南浜モータース”の工場は、役場近くまで流された。

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 波は下の階からさらっていく。遠くから残っているように見えても、住む人にとっては「全壊」と同じ。

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 どの家がそこに建っていてどの家が流されてきた家なのか、わからない。救援に当たっていた地元の人から「どこかで見覚えがある家なんだけど、どこの家だか思い出せない。」という声を聞いた。大体、何もかもがグシャグシャで道路も見えず、自分の立っている場所がどこかもわからなくなる。住んでいたからこそそういう感覚に陥ってしまう。

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 役場裏手、JAとの間の道路。

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 役場前の駐車場には流れてきた家が建っていた。

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 野田村役場。非常用電源で、一応機能しているようだった。

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 体育館の裏手を流れる明内川。大雨が降るとこの川は野田メインストリートにぶつかるカーブで溢れる川なのだが、今回は川に瓦礫が溢れていた。

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 砂まつり会場にもなっている米田の浜。
 私は地震発生時は仕事で八戸へ行っており、その帰り道で生まれて初めて津波というものを目の当たりにしました。以前、チリ地震津波で久慈市に1.2mの津波があった時も高台から「時速600キロの波とはどんなものだろう」と見ていたのですが、波としては全く見えずただ堤防付近の水位が上下して「ああ来たな」という事がわかる程度だったのですが、今回も遠くから波として来るのは全くわからず2〜300m先で引き波に押されて突然盛り上がって初めて「津波が来た!」とわかる、これでは逃げられないなと実感しました。みるみる盛り上がって堤防を越え岸壁を越えて、大きなトラックをさらって行きました。その様子を見ていて、わかった事があります。それは、ひと波ごとに打ち上がる方向が異なるという事です。波は岸や海底にぶつかって反射して合わさるので、ひと波ごとに盛り上がる場所が異なり、打ち寄せる向きがかわるのです。ひと波目がこっちに来なかったと安心はできない事を肝に命ずるべきだと思いました。
 津波は全ての波が堤防を越えるわけではなく、堤防を越えたたったひと波かふた波が町を全滅させてしまうのです。そして今回の津波のように、日本の経済まで破壊してしまう、恐ろしい災害なのです。ただ、今の日本は地震を「予知」で災害を防ごうとしていますが、アメリカの軍事衛星はとうに、海面を1cm単位で測定する能力を有しているといいます。冷戦が終わり、そのデータからはじき出された海底の地図が公開されたのは1995年の事。日本は世界の中でも大きな津波被害の多い国なのですから、そのくらいの衛星を自力で打ち上げて、津波が発生したら即座に警報を発して「逃げろ!」と言えないのでしょうか。
 3月14日撮影

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 野田駅付近。水はお魚センターまで来ていた。

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 港地区。
   広内地区は、夕方時点で電気は来ていない様子。野田地区の断水は、夕方回復。
 3月15日撮影

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 愛宕山鳥居を、愛宕山側から見る。

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 愛宕山から新山・港方面を見る。

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 野田衛生社も水没。

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 野田衛生社前。瓦礫は野田橋で止まっている。

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 広内上り口。工事中の道路のかなり上まで波は上がっていた。

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 落ちた広内橋。

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 野田橋から海側を見る。

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 瓦礫は野田橋でせき止められ、そこから上流側の北区には水だけが上がった。

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 これは千葉県習志野市の友人から送られてきた画像。地震の揺れで液状化現象による被害があった。岩手県沿岸北部は硬い岩盤の上に乗っていて揺れが細かいため揺れによる被害はほとんどなく津波による被害が大きいのが特徴だが、八戸を含めて地盤の緩い所は揺れによる被害も大きい。
 3月16日撮影

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 15日夜から雪となる。16日朝はこの状態。灯油が無くて寒い思いをしている被災者を心配する。
 被災地を写してまわるのは、被災者の感情を想うと罪のような気がします。私も最初は袋叩きに会うことを覚悟で写し歩いていたのですが、知り合いの被災者から「うちの父さんは一緒に様子を見に行こうと言ってもガンとして来ない。」実情を見るに耐えない被災者に代わって後生に残すためにも「写しておいて欲しい」と言われ、背中を押される想いで写してまわりました。さすがに被災した人は写せませんでしたが、写しているうちに被災者の無念がこみ上げてきて写すのが辛くなってきました。燃料切れを契機にしばらく心を静めて、また復興の応援に通いながら報告できればと思います。
被災図


私が確認できた分。大まかな地図です。(11.04.16.改正)